昭和40年10月05日 夜の御理解



 今日夕方でした。福岡の荒戸の教会の御信者さんって言う方が、ある方のお導きでお参りをしてみえて、一つの難儀な問題でみえたんですけど、丁度建築委員の方たちが帰って、そこでお茶でも差し上げておる時にありました。ですからまあおおよそ大広間で、その、有難いと言ったような雰囲気は、言うなら無い時ですね。大広前でお酒を頂いたり、お茶を頂いたりしておる時ですから。
 けど私はこちらの楽室の方に来て頂いて、してあすこでまあお取次ぎをさして頂いたんですけども、ほんとにあのここに着かせて頂いてから、あの古谷さんのお導きでしたんです。古谷さんは有難いとこにご縁を頂かれたもんだなぁと私は着いた途端にそれを思うたと言われるんですね。いわゆるその何か知らんけれども、あのう心が安らぐ心が助かる、ねっ 言うなら有難いっというものが大広前の隅々にまぁ満ち溢れておるという意味の事を言われる訳ですかね。
 まあいわゆるそんな朝の御祈念の時とか、夜の御祈念の時とかいうならいざ知らずだけれども、そういう何でもない、しかも大広間でお茶を飲んだり、御神酒頂いておるような時でもそれをほんとに、それはお世辞かも知れませんけれども、感じて下さったということ、私は有難いと。今日今度の記念祭に、記念品に御教えを書いた御神訓をですね、それを書いた短冊が、今度記念品になるんです。
 そのまあ元になるのを、私に書けということで、私今日書かせて頂いた。に久保山先生にでけました、ちょうど見て下さいち言うてから見せたんですけど、それこそ誉めようがないもんじゃからでしょうけれども、先生ほんとにこれは有難い字ですとこういうわけです。よか字とは言われんですけども、有難い字だ」とこう言われる。あんたが誉めようんなかけん、そげなこという。
 「いえ先生ほんなこつですよ」もうこりゃあちらに御用が済んだら、私が是非これを頂きたいといったような意味の事を言うておられましたがです。例えばほんとにその、字にでもやはり、良い字もありゃ有難い字もある。踊っとるような字もありゃ笑っとるような字もやっぱりあろうと思いますですね。昨日、誰だったかしら、高橋さんだったか、なんか秋永先生が書けって言ったら、「僕の字はマンガのような字だから」とかと言って遠慮してるんですよね。
 だからマンガのような字もやっぱあるんですよ。ね、ですからその結局その人の私は、心が字にでも現れてくる。これはもう仕事の上にでもそう。電話ひとつかけておっても、ご飯一つ頂きよっても、そこには信心の雰囲気というか、有難いとそういうものが、私はこのおかげを頂かなければダメだと。そこまでおかげを頂かなければ。昨夜も遅く秋永先生たちがみえていましたから、最後に繁雄さんお茶ひとつ入れて下さい、もう帰り際でしたけれどお茶を入れて頂いた。
 ですからもうゆっくりしたこつあ出来ませんもんですから、玉露に熱お熱い白湯で玉露を熱いお茶で頂いたんです。秋永先生が言うておられるんです「繁雄さんが入れらっしゃるとどう言うわけじゃろか、玉露でしかもこの熱いお茶でこんなに美味しい」っとこう言われる。これは私はいつも感じるです。確かに繁雄さんの入れられるお茶にはです、あのう是はもうどんなお茶を頂いてもです、まろやかさがあるという事ですね。
 やはり性格がお茶に出てくるんですよね。これはもう確かです。これはお酒を造る杜氏さん達の性格が酒に必ず現れるですもんね。杜氏がしゃんとしとれば、酒もしゃんとしとるわけ、少し甘ったるけりゃ甘ったるい酒。きっと苦みばしった性格なら、苦みのある酒が出来るですね。これは不思議です。ですからほんとにそういうような、例えばほんとに人とお話をしよってもです、電話を聞きょっても、話よってもですよ。
 私はなんとはなしに有難い雰囲気といったような、有難いといったようなものが雰囲気に漂うくらいなおかげ、そういう内容を私は本当に作っていかなければいけない。あの人がもの言うと腹ん立つ、あの人がいわっしゃることはほんと、もういつも汚い、といったようなのじゃなくてです。もうそのお話がそういうふうに有難く、相手に響いていくようなおかげ、そういうような雰囲気がです、家庭の中にまたお店の中にでけて初めておかげが頂けるんじゃないだろうか。お仕事をしておってもです。
 だから有難く見える、ああたが仕事してござると、ほんとに何か後から拝まにゃおられんような、言うならあのミレーの書いた農夫の絵のようなものをですたい。あの例えばお百姓さんであるならば、ほんとにあの尊い姿というものを拝まにゃおれないような雰囲気がです。私はないように段々でけてこなければいけない。今夜まお夕食にまあ例のとおりお茶がゆさんでございますが、
 今日は大根葉のおよごしと、それからなすびの煮たのと、それにしその葉の佃煮ぐらいで頂いて、まあこれはまるきり禅寺で頂きよるごたるねというて頂いたですけれども、私はそういうような、例えばお粥食でもさしてもらう時ですね、もう私のもうほんとに有難いものが、自分ながら漂うように感じるんです。実際あたくしは有難いんです。うむですから恐らく、そういう雰囲気とも入ってきたら、先生有難そうに頂きなさるというような雰囲気があるのじゃないかと自分で思うくらいです。ね。
 例えば椛目の御広前の中にです、そういう別に有難い設備がしてある訳でもない。いや今日なんかはむしろその御広前のそこでです。お酒を頂いたり、お茶を頂いておる人の雰囲気の中に、有難いようなものは、そのうまあ探してもないような雰囲気の中にでもです。何とはなしに古谷さんは幸せだと、こういう有難い御広前に御引き寄せ頂いておられる。というてその言うておられますように。結局私はじめ皆さんの信心の雰囲気というものが御広前いっぱいに私、漂うのじゃなかろうかとこう思うんです。
 どうぞひとつ私がお話をしておる時、私が電話をかけておる時、私が仕事をしておる時、私がお茶を頂いておる時、ご飯を頂いておる時、ね。皆さんがですよ、ほんとに果して内容が有難いかどうかと、確かめてみなければなりません。そして有難いものがあるなら、必ず貴方のその周囲にです、有難い雰囲気が漂うはずです。それはもうお仕事をしよってもそういうものがなからなければいけません。
 私はこれは思うんですけれどもね。今日勝彦がここへ例えば、奉仕をしておる時に座っておるけどもその勝彦が座っておるのに、その有難いともいう雰囲気がないですね。ですから、これはですね、ほんとに奉仕をさして頂いておるのが有難いという気持ちでここの中に座らなければです。ね。例えばここの御広前に着いた途端に、お障子を開けた途端に、皆んなが、どんな悩みを持って来ておってもです。
 先生がっとこう有難く御結界に奉仕をしておられる、それに触れただけでです。おかげ頂いたと言った様なものが、人に与えれる位なです。あたしは有難さというか、真剣さと言ったものがなからなきゃいけんのだとこう思うんですが、これは御結界奉仕だけの事ではありません、皆さんの職場に於てもしかりなんです。さあ皆さんが今電話をかけておられますが、電話を聞いておられますが、話しておられますがその話の中にです。有難いようなものが、何か言葉の端々にでもあるだろうかと。
 言うふうに矢張り何時も思うてみなければならん。問題は内容。繁雄さんの心の中にまろやかのもがあるから、誰が入れるよりも、やはりその熱いお茶で入れても、冷まして入れてもやはり玉露らしい。秋永先生がどうしてこんな、お茶が出るじゃろかと、言われる様なお茶がです。ね。あたしは出てくる、頂けるんだとこういうふうに、私はこう思うですね。どうぞ、そういう雰囲気というか、ねえ。そういう、その内容が私ども自身の心の中、に頂けなければ、勿論、雰囲気が出るはずはありません。
   おかげ頂かねばなりません。